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映画『聖の青春』『怒り』:表現を一歩上にいかせる魔法って??

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役者とは、その役を纏うことができる人のことだと思う。

 

誰々が役を演じるために「○Kg減量した」とか「髪を切った」とか

ニュースになるけれど、それはやっぱり役者として当たり前のことなのかもしれない

と、実はいまでは思うようになってしまった。

 

このことを意識するようになったのは

『キンキーブーツ』という舞台での三浦春馬のお尻や脚がヒールによって作られた

お尻や脚でびっくりしたというブログかニュースの記事をみてから。

 

なんでも三浦春馬は自宅でも高いヒールを履いて過ごしたらしい。

もちろん1日で作り上げられるものではない。

その脚・その尻にこそ観客は、三浦春馬でなく役を見ることができたのだ。

 

 

最近、『聖の青春』と『怒り』を見た。

『聖の青春』は

松山ケンイチ演じる、若くして亡くなった天才棋士村山聖の物語。

棋士役の松山ケンイチと東出昌宏は半年以上前から将棋の駒を持ち歩き、

練習をしていたらしい。

 

そーゆーことなんですよね!!!!

 

もしも、天才棋士役の松山ケンイチさんの手が、羽生善治役の東出さんの手が、

おぼつかなかったら・・・!

私たちはきっと、彼らの手元が気になり、その物語に入っていけない。

クライマックスの対決は、全然クライマックスではないし、感動すらできない。

(実際は、すばらしい手つきに加え、まるでドキュメンタリーを見ているかのような存在の仕方。東出さんにいたっては、羽生さんと見間違うほど・・・似、似てる!!!!)

 

 

そして『怒り』は、

まさに役者の役づくりのチカラが高まって出来た映画というかんじで

展開も役者も、マジで目が離せない映画!

 

もしも違うレベルの役者だたちが演じたら、

違う物語になってしまったんじゃないかと思ってしまうくらい、役者がいい!! 

妻夫木聡は、本当にゲイだったし、

宮崎あおいは、どうしたらこんなに泣けるのってくらい感情をだしていたし、

松山ケンイチは「聖」とあまりにも違いすぎたし

(そもそも、体重だけでも20kgは違う)

皆、外見も感情もまさに、その役そのもの。

 

 

立て続けにそんな素晴らしい映画をみたら

どうしたって役者について考えざるを得ないんだけど、

そして気づいたのは、当たり前すぎることなのですが、

 

普段、見ている物語の世界は相当の時間と努力で作られている物語なのだ。

つまりそれが、ショウなのだ。

 

ということ。

 

極端な話、その役が纏えるのであれば演技の経験がなくたって問題ないのだ。

(きっと、竹内ピストルさんはきっともうそのままで役そのものだったのだろう。)

 

役が纏えなければ、役者はその物語の一部ではなれないし、その世界に登場できない。

見た目は一番わかりやすいけれど、

病気の役なのに太っていたら、(痩せられなかったら)

病気で太ってしまう設定に変えなければならない。

その役者がどうしても使いたい場合は、設定を変えるだろうし、

反対に見た目がばっちりでも声や演技があまりにも合わない場合も、

役は纏えないかもしれない。

 

あんなに顔も綺麗な人たちが、あんなにさらけだして演じて、

その役を纏えるように日々努力する。

本当に選ばれたひとだと思うし、そういうことなんだと思う。

逆に、そこまでしないとショウにはなり得ないかもしれない。

 

 

そう考えるとショウはとっても贅沢ですよね。

(もちろんここに、脚本・演出・スタッフの技術が加わってこそ

極上のエンターテイメントが生まれるわけですが。)

 

 

昨日宮沢りえさんが出てる、プロフェッショナルをみた。

彼女ほどの技術があれば、それなりに見せることだってきっとできるはずなのに

すっごく悩んでた。

 

 

 

物語を一段上にいかせる魔法って一体なんなんだろう。